ヘリオトロープの花言葉によせて

 あの遙かなる時空から平穏な日常に戻ってきた譲だったが、その心中は穏やかではなかった。
 望美がずっと浮かない顔をしているのだ。
 気になって尋ねてみたら、寝覚めが悪いのだという答えが返ってきた。
 朝練のある譲は望美と一緒に登校することがないため、朝の望美がどういう様子なのか知ることは出来ない。ただ、それ以外の時間帯には、つまり譲が望美と過ごせる時間帯ということだが、昼となく夜となく望美の眠そうな顔を見ることはよくあった。
 かつての自分のように悪夢に悩まされているのかと青くなった譲だったが、そういうわけではないそうだ。ぐっすりとよく眠れて夢も見ないのに、寝覚めだけが良くないのだという。

「たぶん、こっちの生活にまだ慣れていないんだよ」

 だから心配しないで。そう言って望美は笑った。
 それで譲は一応納得した。夜まで明るいこちらの暮らしに、確かに譲もとまどうところがあったのだ。こちらの暮らしの方が本来のものであるはずなのに、とまどうというのもおかしな話だが、それだけあちらになじんでしまっていたのだろう。
 しかし、ご飯を炊くのに火を熾さなくてもいいのだということに譲がすっかり慣れてしまうだけの日数が過ぎても、望美の表情は冴えないままだった。

 龍神の神子という立場にいただけに、譲よりも感じたとまどいや欠落感などが大きかったのだろうか。
 可愛がっていた白龍や、親友になれた朔と会えなくなったことに対する寂しさが、募っているのだろうか。
 それとも、万に一つも考えたくないことだが、今隣にいるのが譲だということがいけないのだろうか。やはり自分では駄目だったのだろうか。側にいて欲しい人は譲の他にいたのだということに、望美は今になって気づいたのだろうか。

 この頃は常に眠そうな顔をしている望美だが、ぼんやりしている一方で、折に触れて何か言いたそうな視線を譲に向けてくる。そのもの言いたげな様子が譲の胸を刺す。
 いったい何を言われるんだろうか。自分に不満があるのなら遠慮無く言って欲しい。
 そう思う一方で、何も聞きたくないという矛盾した思いが譲の中にある。
 もし、その内容が別れ話だったらどうすればいいのだろうか。何を言われても受け止めるつもりでいるが、それだけは受け入れることができない。望美の希望なら何をおいてもかなえてやりたいけれど、それだけは絶対に無理だ。もし、望美の言いたいことがそんなことなのだったら、永遠に聞きたくない。
 口を開きかけてはつぐむ望美の姿に、譲の不安は募る一方だった。

 けれど結局、それがどんなものであれ、望美の願いを無下にすることなどできないのが譲だった。何を言われても、もしそれが譲にとっての死刑宣告であったとしても、黙って受け入れようと、譲はある日一大決心をし望美の真意を問うことにした。
 そうは言っても。
「俺に何かできることはありますか?」
 そんなふうに尋ねるのが譲の精一杯だったのだが。
 俺の他に誰かいい人がいるのでしょうかなどと、どれほどの一大決心をしようともそんなことが言えるほど譲の度量は広くない。
 できることなら、いや例えできそうにないことだとしても、何でもするから俺ではだめですかと、すがるような、それでも清水の舞台から飛び降りる覚悟で口にした言葉だった。どうかどうか捨てないでと譲の背後には演歌が流れていたに違いない。
 そんな悲痛な譲の切り出した一言は、譲自身も驚くような効果をもたらした。
 ぱっと望美の顔が輝いたのだ。

「あのね、お願いがあるんだけど」

 しかし、お願いの内容を言うところで望美はためらった。でもやっぱり悪いから……と口ごもる望美に、譲は急いでそんなことはありませんと思い切り首を振った。
 自分が何かすることで、望美の気鬱が晴れるならこんな嬉しいことはない。望美の表情からして、どうやら願い事は「別れてくれ」という内容じゃなさそうだ。自分は望美の側にいていいのだ。それならば譲には何も怖れることはなかった。蓬莱の玉の枝を取ってこいと言われても今の譲はやりとげるつもりでいる。
「先輩が心配なんです」
 それでも望美は言うべきかどうかしばらく迷っていたが、なんでも言って下さいと譲が必死に訴えたのが効いたのか、やがておずおずとお願いの中味をきりだした。

 

 

 弓道部の朝は早い。道場の掃除や弓の手入れから体力作りのための走り込みなど、実際の射に入るまでの時間が長いからだ。礼を重んじる部の伝統から、掃除等が一年生だけに押しつけられるようなことはないが、それでもやはり下級生の来る時間の方が自然と早くなる。
 譲もその例にもれず早くから道場に来ていたが、そっと作業の輪から抜け出した。そうして目立たない場所でいそいそと何かを取り出し操作する。そうして譲はそれを耳に当てた。

「先輩、朝ですよ。起きて下さい」

 道場の片隅で手にした携帯電話。かけた相手は言うまでもない。あちらの世界では毎日、直接起こしに行っていた相手だ。
「うーん。あと、五分」
 寝ぼけた声で、それでも一応ちゃんと電話に出た相手がこぼした言葉に、譲は相好を崩した。

「まったく、仕方のない人だな」

 ――ほら、あっちではいつも譲くんに起こしてもらっていたじゃない? だからどれだけ眠っても、朝起きたときに譲くんの声がしないと朝だーって気がしないみたいなの。

 寝覚めが悪い本当の原因をそう望美が分析し、だから起こしてほしいのだと頼まれたときの譲の心情がどのようなものであったのか、それを言葉にするのは野暮というものであろう。
 ただ、朝練中(正確には朝練前の作業中)決まった時間に毎日電話をかける譲の姿はすぐに他の部員の知るところになり、さらには電話中の譲のあまりの表情に、相手はいったい誰なのかと少しの間だけうわさになったらしい。

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