お守り

 受験生というものは通常習い事や部活を控えるものらしい。部活の引退は半ば強制的なものとしても個人的な習い事までやめてしまったり、やめなかったとしても受験生の間は一時休止とする人が多いようだ。
 けれど譲は特にそういうことをしなかった。友人には余裕だなと皮肉っぽくからかわれたが、別にそういうわけではない。受験だからといって普段の生活を変えることのほうが、かえって良くないのではないかとそう思っただけだ。
 普段と比べて勉強時間が増えた様子のない息子に両親も何も言わないで好きにさせてくれている。信頼されているのかそれとも単に楽観的なのか。高校受験も兄に続いて二回目、しかも二年連続でとなればいちいち緊張していられないということかもしれない。
 ともかく譲は受験を間近に控えた今も近所の弓道場に通っていた。部活の方はいつまでも出入りをしたら後輩がうるさがるだろうと思ったので、最後の大会を終えた時点で他の三年生と一緒に引退していたが、子供の頃から通っている道場で週に一度弓を引くことは欠かしていない。確かに勉強時間は少なくなるのかもしれないが、週に一〜二時間のことだ。それほど大きな支障になるとも思えないし、無心に的に向かっていれば集中力も高まる。決してマイナスにはならないはずだ。

 譲なりに色々考えた末での決断だったのだが、今日になって譲はそんな自分の選択を後悔していた。

 今日も習慣通り弓道場へ行って来たその帰りなのだが、弓の他に自分が抱えている大きな荷物に視線を落として深いため息をつく。
 その包みが自分の顔と同じくらい大きいというだけでも正気を疑うというのに、ピンクの包装紙に赤いリボン、加えて形が巨大なハートとくれば、もう嫌がらせとしか思えない。
 譲の通う弓道場では、バレンタインデーに一番近い稽古日に恒例のお楽しみ会が開かれる。女の子も含めた全員でくじを引いて、くじに応じたチョコをもらうというものだ。もはやバレンタインの主旨がかけらも残っていないその行事は、世話役の保護者の中に茶目っ気のある人がいるようで、どういうわけか昔からずっと続いている。
 今日がその行事の日だということを、譲は忘れていたわけではなかった。けれど全く気にとめてもいなかった。譲はくじ運というものに恵まれたことがなかったため、いつもはずれの一番小さいチョコしかもらったことがなかったからだ。それに、そもそも譲がもらいたいチョコは世界に一つしかないのだから、そんな行事はどうでもいいものにしかなりようがない。
 くじを引かされるのが少々面倒なだけで、もらったチョコをポケットに放り込みさえすれば、いつもと全く変わらない稽古日となるはずだったのだ、今日も。

 それなのにいったいこれはどういうことだろうか。

 今年譲が引き当てたのは景品の中で一番大きなチョコだった。巨大なハートチョコを手渡されたとき、譲は自分の顔がひきつるのを止めることができなかった。一番大きいのに一等賞ではないあたり、やはりこれは罰ゲームなんじゃないのか。はずれたことを悔しがったり、大きいというだけで無邪気に喜んだりできた幼い頃ならともかく、今になってどうしてこんなものが当たるのか。
 大きすぎて普段のかばんに入らないため、腕に抱えるしかないというのに紙袋一つもらえなかった。食べ物や人からの贈り物を粗末にしてはいけませんと、祖父母や両親にしつけられてきた譲には、道場ではもちろん道ばたのゴミ箱などにもそれを捨てることはできず、とにかく早く家に帰り着こうとひたすら足を動かしていた。
 こんなことなら受験を理由に休めばよかった。どうか知った人に出会いませんように。
 祈るような気持ちで可能な限り足を早く動かす。けれどもうすぐ家に着くという所まで来て、やはり譲には運がないようだった。

「うわぁ、譲くん、大きいのもらったんだねえ」

 住宅街は曲がり角も塀も生け垣も多い。要するに見通しが悪い。不意にそういった角の一つから今一番見つかりたくない人の声が聞こえてきて、譲の後悔は深くなった。しかし逃げ出すわけにもいかないため、歩く速度を落として声の主が追いついてくるのを待つ。
 小走りになって譲の隣に並んだその人は、感心しているともあきれているともとれるような顔で、譲の抱えているお荷物をまじまじと見つめた。
「すごいなあ。譲くん、もてるんだね」
「違いますよ!」
 反射的に飛び出した否定の言葉がずいぶんととがった物になったので、譲はあわてて声のトーンを落とした。
「これは、道場でもらったんです。くじ引きで、みんなもらえるものなんですよ」
「道場で? 学校でもらったんじゃないんだ」
「中学はお菓子の持ち込み禁止ですから」
「ああ、そうか、そうだったね」
 屈託無く望美が笑う。譲の過敏な反応を気にしていないようで、そのことには譲は安堵した。けれど同時に胸が焦げる。

 つい去年までは自分だって譲と同じ中学生だったくせに、そうだったねなんて、そんな風に笑わないで欲しい。

「毎年の行事なんですよ」
 大きい大きいと望美があんまり珍しそうにするので、譲はもらったチョコを望美に手渡した。そして恥ずかしい大荷物が自分の手をとりあえず離れたことにほっと息をつきながら、譲は重ねて説明した。すると望美が不思議そうに首をかしげた。
「毎年? 譲くん、こんなのいつも、もらってたっけ?」
「もらってましたよ」
 望美の疑問に譲は苦笑いで答えた。
「ただ、いつもはもっと小さいものでしたけど」
「小さいの?」
「俺はくじ運がないので、いつもはずれの一番小さいチョコでしたから」
 袋詰めになっているアルファベットが刻まれた一口チョコ。例え譲の家の食卓や譲の机の上などにそれが転がっているのを見たことがあったとしても、望美は気にとめたりはしなかっただろう。わざわざ見せたり報告したりするほどのものでもない。
「そうなんだ」
 譲の説明を聞きながら望美は巨大チョコをためつすがめつして見ていたが、やがてぱっと明るい笑顔で譲を見上げてきた。
「じゃあ、よかったね!」
「よかった、ですか?」
 こんなに大きなチョコ、おいしいとも思えないし、持てあますだけだ。その上ここまで持って帰ってくるのがとても恥ずかしかったのだから、嬉しい要素なんてどこにもない。
 さぼるなら受験という格好の口実があったのに、本番直前のこの時期にわざわざ出かけていってこんな邪魔な物を引き当てるなんて、まったく自分の要領や運の悪さが身にしみるというものだ。
 望美によかったと言われても、こればかりは同意できる気分ではなかったので譲は正直に眉を寄せたのだが、望美はにこにこしながら話を続けた。

「だって、今年はいつもと違う物があたったんだからものすごく運がいいってことでしょう? 受験の年に大当たりを引いたんだから、きっと譲くんは合格するよ!」

 意表をつかれた。
 思わず絶句して譲は呆然と望美の顔へ視線をそそぐ。
 けれど驚きが収まってくると、次に胸の中にじわじわと広がってきたのは春の日だまりのようなぬくもりだった。
 ああもう、本当にかなわないなと、負けたとそう思っているのに、決して不快ではない感覚が満ちてくる。
 譲は邪魔だとしか思えなかったものなのに、譲が自分の運のなさを改めて実感していた出来事だったのに、そんな優しい解釈を見つけてくれるのか。
 今日くじを引いてからずっと固くなっていた口元が自然にほころんでくる。
 ただし、譲がこぼした笑みは単純に楽しげな形のものにはならなかった。望美にかなわないと思った分だけ苦笑の混じった複雑なものになる。そのせいだろうか、望美が突然、勢いよく手と首を横に振った。
「別に譲くんが運で合格するって言ってるわけじゃないよ? ちゃんと実力はあるけど、その、運も味方してくれているっていうか」
 譲に失礼なことを言ったのかもしれないということに思い至ったのだろう。あたふたと弁解をする望美に、譲は微笑んでみせた。
「そうですね、運の神様もついていてくれるなら、心強いです」
「うん、絶対大丈夫だよ」
 今度は正真正銘本物の、譲の笑顔に安心したのか、望美も笑顔でさらに譲の合格を請け負ってくれた。

 ついていてくれるのは、本当は運の神様などではないけれど。
 彼女がくれた太鼓判は、譲にとって何よりのお守りだった。

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