白紙の用紙

今日は日直だった。出席番号順にまわってくるそれから、ずっと逃げ続けることができないのはわかっていたけれど、このタイミングで回ってくるなんて、運が悪いとついそう思ってしまう。
 用事があるからともう一人の日直が先に帰ったので、押し付けられた日誌をしぶしぶ職員室まで持っていくと、予想通り待ち構えていた担任につかまってしまった。
「有川、おまえだけだぞ、まだ出してないのは」
 渋い顔をして手にしたプリントを叩き、説教をするときの調子で話し出した先生から、俺は目をそらした。他のクラスメートが全員提出を済ませ、俺だけが出していないというそれは、進路希望調査用紙だ。俺はそれをまだ白紙のまま持っていた。
「何を迷っているんだ。K高でいいじゃないか」
 行儀というより柄の悪い格好で足を組んだ先生は、用紙をなくしたならここで書くかとそう言ったが、俺は黙って首をふった。
 用紙はある。家の机の引き出しの奥にしまってある。ただ何も書いていないだけだ。
「K高のレベルは確かに高いが、お前の成績なら問題はない。心配しなくても確実に合格圏内だ」
 受験生のほとんどが成績に合わせて志望校を決める。だから先生はそう言ったのだろうが、俺が気にしているのは成績以外のことだったので、俺はその言葉にうなずくことはできなかった。
「お前、大学まで行くつもりなんだろ? K高は進学校だし、ちょうどいいじゃないか。兄貴だって通ってるんだろ?」

 まさにそれが問題なんですよ、先生。

 心の中だけでそう返答する。成績だけで決めるのなら俺だって迷ったりしない。けれど兄さんと同じ高校に行くということに、俺はどうしても気乗りがせず、志望校を決めることが出来なくなっていたのだ。
 何を言われても答えない俺に先生はため息をついて、けれど結局最後には笑いながら解放してくれた。
「まあ、なんだ。考えるだけ考えればいいさ。一生のことだからな」
 けれどいつまでも待てるというわけじゃないぞ、と釘を刺すのを忘れないのはやはり教師としての長い経験のなせる業だろうか。

 もう冬に近い秋の夕暮れは日が落ちるのが速い。真っ暗になりかけている帰り道を、俺はわざとゆっくり歩いた。
 帰り際先生には、親御さんと良く相談しろとも言われたが、家に着いても相談などするつもりはなかった。したところで言われることは先生と一緒だ。

「K高でいいじゃないの。お兄ちゃんと一緒なんだし」

 兄さんは弟の俺が言うのもなんだが、なんでもできる人だ。多分に要領がいいのだろう。どんなことに関しても、俺は兄さんが悩んだり、困ったりしているところを見たことがない。そういう姿は俺に見せないだけなのかもしれないが、とにかく兄さんは出来がいいのだと回りからもそう思われ、頼られてもいる。性格は多少軽いと思われているようだけれど。
 そんな兄さんと比べて、俺がそれほど劣っているとは思わない。勉強にしろ、運動にしろ、俺だってそれなりにできるほうだ。けれど、同じ高校に行くとなるとどうしても気が重くなる。
「ああ、将臣の弟か」
 そう言われるのが嫌だったのだ。
 弟だからといって、兄より何もかも損をする立場にあるとは思わない。兄には兄なりに損をすることはあるだろう。けれどそんな言葉をかけられる度に、弟という立場は絶対に兄よりも損だと思ってしまう。
 兄さんより駄目だと言われるのはもちろん不愉快だが、兄さんより優秀だと言われたところで、不快感は変わらない。俺を見て、兄さんのことを思い浮かべられてしまうが嫌なのだ。兄さんが俺を判断する基準になってしまうのがたまらなかった。
 「将臣の弟だから」、「将臣の弟なのに」、と、そんなふうに言われてしまえば、たとえそれがどれほど好意的な評価だったとしても、俺に受け入れられるものじゃない。
 小学校、中学校と同じ経験をしてきた。同じことが繰り返されるのがわかっているのに、同じ高校を選ぶなんて不毛なんじゃないだろうか。
 兄さんに腹をたてているわけじゃないし、兄さんを憎んでいるわけでもない。けれど兄さんの側にい続けるということは、俺には辛いことだった。

 それに、その上、あの高校にいるのは、兄さんだけじゃない。
 同じ高校に行けば、また見なければならないのだ。兄さんとあの人が一緒にいるところを。
 どう頑張っても俺には行けないところで、二人が笑っているのを見なければならない。

 ……近くにいるから色々なことが気になるのだ。遠くに離れてしまえば、そのうち忘れてしまえるかもしれない。
 だから離れるべきなんだと思った。どこか、遠くへ行ってしまおうと思った。せめて高校は別のところへ行こうと、そう思った。
 それなのに、一番肝心な行き先を、俺はずっと決められずにいた。
 俺の成績なら、K高が一番妥当な選択なのは確かなのだ。弓道部だってあるし、それに家からも近い。通いやすいという意味でも、K高は最適な高校だった。わざわざ時間をかけて、たいして魅力のない高校に通うというのも、馬鹿馬鹿しい話だ。

 それに、その上、あの高校にいるのは、兄さんだけじゃない。
 違う高校へ行ってしまえば、そう簡単には会えなくなる。顔を見る機会も時間もほとんどなくなってしまう。兄さんとあの人が何をしていても、俺にはもうわからなくなってしまうのだ。

 ……それでも離れてしまえば、いずれ気にならなくなるんだろうか。
 いつかは、そんなふうになれるんだろうか。

 同じ理由でK高に行くのも行かないのも嫌なのだ。どこまでも結論のでない問題を抱えたまま家へと足を進めていると、ぱたぱたと軽い足音が後ろから聞こえてきた。振りかえると、長い髪を揺らして駆けて来た人が、俺に向かって手を振った。
「譲くん」
「春日先輩」
 先輩は俺に追いつくと、息をはずませて偶然だねと笑った。
 一つ年上の先輩と下校のタイミングが合うことはまずない。お互い小学生だったころならともかく、中学生と高校生とに分かれてしまった今ならなおさらだ。先輩と肩を並べて歩くこの状況は、本当に偶然で、そして幸運だった。
 違う高校を選べば、こんな幸運を得る機会は本当になくなってしまうのだろう。いっそ、なくなってしまった方がいいのかもしれないけれど。
 しばらく顔見なかったけど元気だったと尋ねてくる先輩の言葉を、苦い気持ちで聞きながら、何とか笑顔を作り上げて先輩と歩調を合わせる。先輩は受験を控えた俺の健康を一通り気にし終えると、今日学校で起きた面白い出来事を話し出した。

 先輩は昔からよくしゃべる人だった。俺と兄さんが男で先輩が女の子だということもあるのかもしれないが、もっぱら先輩が話して、俺は聞き役に回る。
 身振りを交えて話す先輩に俺が相づちをうっていると、突然先輩が何かを思い出したように、そうだと大きな声をあげた。
「この前ね、うちの弓道部見てきたの。けっこう人数が多かったし、弓道場もきれいだったよ」
 あたかも俺に報告するかのように持ち出された話題に俺は驚いた。
 俺がずっと弓道をやっているので、先輩が試合の応援に来てくれたことはある。けれど、先輩自身は弓道そのものに、それほど興味はないはずだ。
「どうして、弓道部の見学なんかに行ったんですか?」
 わきあがった疑問のままにそう質問すると、先輩は肩をすくめた。
「実は見学に行ったわけじゃなくて、たまたま弓道場の側を通りかかっただけなんだけどね」
 先輩は軽く腰を折ると、下から俺の顔をのぞき込むようにして笑った。

「もうすぐ譲くんが入るんだなーってふと思いついて、覗いてみたんだ」

 笑顔と共に告げられた言葉はさらに思いがけないもので、俺の足が思わず止まる。
 まだ秋なのに、ちょっと気が早かったね。
 そう言って歩く先輩の背中を俺は呆然と見送った。
 俺は中学生で、先輩は高校生で。先輩が俺を見るのは久しぶりなのに、こんなふうに二人で話したりするのはもうずっとなかったことなのに。
 思い出してくれるのだろうか。忘れないでいてくれるのだろうか。
 いつも?
 ――いつまで?

「残念ながら、あまり強くはないみたいなんだ。でも、だから譲くんすぐにレギュラーとれるかもねって、あれ?」
 先輩はそこまで言って、俺がついて来ていないことに気がついたらしく、くるりと体ごと振り返った。そして数歩分離れた所に突っ立っている俺を見て、不思議そうに首をかしげた。
「もしかして、高校では弓道やらないの?」
「いえ、続けるつもりです」
 なんとか言葉が出た。声が震えることもなく、自然に言えたことに息をつく。止まっていた足を動かして、先輩の方へ歩み寄る。
 そして、こう続けるつもりだった。
『でも、K高には行かないつもりなんです』
 それなのに、俺の口から出たのは全く違う言葉だった。
「早くレギュラーとれるように、がんばりますね」
 口に出した瞬間に、自分でもバカだと思った。愚かな結論だと。
 小中学校でずっとたどってきた道を、高校でも歩き続けるなんて、愚かだとしか言いようがない。
 それなのに、俺は自分の言葉を取り消すことができなかった。
「うん、がんばってね。試合の時は応援に行くから」
 先輩がくれた笑顔に、俺は「それは楽しみです」と答えた。

 俺が追いつくと、先輩も歩き出した。肩を並べて家路をたどりながら、俺の胸をほろ苦いものが滑り落ちる。
 離れてしまえば、そのうち忘れてしまえるかもしれない。何も気にならなくなるなれるのかもしれない。けれど、俺はまだその決心をすることは出来ないようだ。自分でもバカなことをしていると思うのに、結局それが俺の出した結論だった。

 次の日の朝、俺は進路希望用紙を担任に提出した。

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