エール

温泉の癒し効果というのはたいしたものだと思う。連日の戦や、旅で強張っていた体がすみずみまでほぐれていく。
 壁一つ隔てた女湯では先輩と朔が同じようにくつろいでいるはずだ。
 姫君達はどうしているのかとヒノエがそちらに聞き耳を立て始めた時、俺は彼を止めなかった。何やってるんだとお湯の中にその頭を沈めたいのは山々だったが、あまり騒ぐと隣に聞こえてしまうし、それに俺が取り乱せば兄さんがおもしろがるだろうから、それがしゃくだったということもある。だが結局、俺自身の好奇心もあったということは否定できない。別にやましい気持ちはないつもりだが、俺のいないところで先輩が何を話すのかということは気になった。なんでもないふりをして湯につかりながら、どうしても神経が耳に集中してしまう。
 けれど、温泉の心地よさにはしゃぐ先輩の声の後で聞こえてきた朔の言葉に、俺の心臓は跳ねあがり、やはりヒノエを止めるのだったと、わざと乱暴に湯をかきまわすなりなんなりして妨害するのだったと、激しく後悔した。

「望美は誰が一番好きなの?」

 朔がそう先輩に尋ねたのだ。
 思わず女湯の方へ向けた俺の視線の先で、ヒノエが音を立てずに指を鳴らし、やはり音を立てずに口笛を吹いた。
「そーこなくっちゃね」
 そう言ったヒノエの顔は完全に面白がっている。しかし俺はきっとあんな顔をしていない。ともすれば唇をかみしめそうになるのを、兄さんの視線を感じながらなんとかこらえる。
 先輩がなんと答えるのか。
 予想がつくようでつかないそれを聞きたくはなかったが、自分の顔を無理やり女湯の方からひきもどした俺の耳は、結局そちらを向いていた。
 先輩の返答が聞こえてくるまでの時間はとても短かったのだと思う。それなのにそのわずかな時間に俺の頭をかけめぐった思いはとてもわずかとは言えないものだった。
 けれどそれも先輩の答えが聞こえてきた瞬間、真っ白になった。

「やっぱり朔が一番好きだな」

 脱力して湯の中に沈みそうになったのは、俺だけではないと思う。見れば誰もどこか呆けた顔をしていた。その度合いに差はあるだろうが、みんな自分の名が挙がるのではないかとそれなりに期待すると同時に、自分以外の名が挙がるのではないかと緊張していたのだろう。傾きそうになる頭をどうにか支える俺の視界の端で兄さんが肩をすくめた。
「つまんねえ。とんでもなくつまんねえ」
 湯の中に半分顔を沈めながらヒノエが低い声でうなった。
「君は自分の名前が出ると思っていたのでしょうが、あいにくでしたね」
 弁慶さんがふふっと笑いながらそう言うと、ヒノエは思いきり顔をしかめた。
「あんただって相当期待してたんだろうに、お気の毒だったな」
「僕の名前が出るか、あるいは誰の名前も出ないか、と思っていましたからね。予想通り、ですよ」
「よく言うぜ」
 そんな二人のやりとりを聞くうちに俺の肩からも力が抜けた。そして、ふ、と自然に笑いがこぼれ出る。
 先輩らしいな、と思ったのだ。

 湯から上がって女性達と合流する。俺達より彼女達の方が出てくるのが遅かったのは、まあ当然だろう。
「あー気持ち良かったー」
「姫君の気晴らしになったかい?」
「うん。とってもさっぱりしたよ」
 ヒノエと楽しげに言葉を交わす先輩に、俺の気持ちもなごむ。ここに来てから何かと気の張る状況の連続だった。たとえこの一瞬でも、先輩の心がほぐれたなら良かった。
 そうして先輩を見ていた俺の背中を誰かが叩いた。
 振り向くと、朔が笑っていた。
「譲殿」
「朔?」
 呼ばれた名前に応えると、朔は意味ありげに俺を見上げながらこう言った。
「がんばってね」

 ――どういう意味だろうか。

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