世界は平和になったけれど、しいなの日常は平穏とは言えなかった。
主にというかむしろ100%、しいなの目の前で山積みの書類をめくっている男のせいだ。
ちなみにしいなの側にも同量の書類が積まれ、しいなの決済を待っている。
どう考えてもこういう仕事は自分の柄ではない。これを全部片づけるまでにかかる時間を思うと、頭が痛む上にため息が出る。
まったく柄ではない。柄ではないのだが、課せられた使命を放棄しようとはしいなは思わない。自分にできることがあるのなら、精一杯やりとげようと思っている。それがこの世界を今生きている者の責任だと。
ただ、自分をこの状況に置いたのがこの男だと思うと腹がたつのだ。やりがいのあることでも、この男の思惑に載せられていると思うと、どうにも感情が消化不良を起こす。
しいなの苛立ちは募る。
書類の量が一向に減らないのもさることながら、目の前の男の態度が気に入らないのだ。
この程度の書類など、彼にとってはたいしたことがないのかもしれない。しいなほどに目眩も頭痛も起こらないのかもしれない。
けれど、必死で書類と格闘しているしいなが目の前にいるというのに、にやにやしまりのない顔で鼻歌を歌うとはどういうわけか。
特に耳を澄まさなくても勝手に届くその歌は、「うっれしいなー、たっのしいなー」と聞こえた。
しいなの苛立ちが一気に増した。自分の頭の中で何かがぷつんと音を立てて切れたのが聞こえたくらいだ。
この男に何かを言うよりも先に仕事を片づけてしまった方が早いと、今まではこらえてきたのだがそれも限界だった。
「もうちょっと静かにしておくれ!」
大声を出すことも、音を立てて机を殴りつけるのも、仕事中だからと自制した。それでもしいなの口から出た声はずいぶんと低くなり、不機嫌と怒りを全面的に主張したものになっていた。だが、それで恐れ入るような男だとは最初からしいなも思っていない。案の定、男はきょとんと目を丸くして首をかしげ「何が?」と言った。
実際に虚をつかれたわけでは絶対にない。そんな表情もわざと作っているのだ。
ゆるみきったその顔には苛立ちより呆れの方が先に立つ。毒気を抜かれたしいなの次の言葉からは若干険がとれていた。
「なんなんだい、その歌」
「俺様の今の気持ち」
臆面もなくそんなこと言ってのけるのだから、本当に呆れてしまう。しいなは大きなため息をついた。イライラしているのが馬鹿馬鹿しくなってきたのだ。
とはいえ、苛立ちが収まっても仕事がなくなるわけではない。そんな歌を聞きながら作業するのはやはり御免だ。この男に真面目で真剣な態度を望むのは無理なのだとしても、歌くらいは止めさせたい。
「うるさいから止めな」
「だーめ」
せめてそれくらいはとしいなが投げた短い要請の言葉は、しかし、それ以上に短い言葉で退けられた。
「俺様がしいなさんといるときの素直な気持ちだし?」
さらにはそんなことまで言い出して、目の前のお気楽男は鼻歌を再開した。何が楽しいのか「うれしいな」と「たのしいな」をひたすら妙な節回しでくり返す。
やっぱり殴ってやろうか。
収まりかけていた苛立ちがまたわき上がってきた。仕事中だと自分に言い聞かせてきた自制心もどこまでもつか。
殴りかかるタイミングを計っていたしいなだったが、何度も聞いているうちにその節回しがひっかかった。
もしかしなくても、これは。
「うっれしいなーたっのしいなー」
「……ちょっと、あんた」
「なーに、しいなさん」
――間違いない。
鼻歌と自分を呼ぶ声と、続けて聞けば間違えようのない。
しいなとしいなをかけているのだ。
くだらなすぎて、しゃれにすらなっていない。
今度こそ呆れ果て、全身の力が抜けたしいなは机の上に崩れ落ちた。
「な、なに? どうしたのしいなさん」
「ばかだね、あんた……」
さすがに意表をつかれたのか慌てた声を出した男に、しいなは弱々しい声で、けれどきっぱりと断言した。ああもう、本当にどうしてくれようこの男は。ばかだばかだとは思っていたがここまでとは。
「なんなんだい、その歌は。あたしに対する当てつけかい?」
「なんでそうなるの。だから俺様の素直な気持ちだって。しいなさんの名前ってすばらしいなーって」
「……」
まだ言うか。
まともな対応が期待できないのに、こっちばかりまともな反応をするのも馬鹿馬鹿しい。これ以上仕事が滞らせるわけにもいかないし、仕方がない。歌をやめさせるのはあきらめて、後は耳栓でもしてやり過ごすしかないだろう。
全身を襲った脱力感に、なけなしの気力を根こそぎ奪われ、結局そう結論づけたしいなは、会話を打ち切るべく投げやりに言い放った。
「もう好きにしな。くやしいなでもかなしいなでもさびしいなでも、いくらでも歌えばいいだろ」
「それはだめ」
間髪入れず返ってきた言葉はがらりと口調が変わっていた。それまでのふざけたしまりのない声が嘘だったかのように、強く真摯にそれは響いた。
思いがけない反応に驚いて男の顔を見れば、表情もそれにふさわしいものに変わっていた。しいなは思わずこくりと音を立てて息を呑んだ。
「な、なんで」
尋ねたしいなの声がうわずっていたのが、面白かったのか嬉しかったのか、男は口元と目元の両方をゆるめて答えた。
「だって俺様、しいなさんといるときはそんな言葉浮かばないし」
さっきから言ってるでしょ、俺様の素直な気持ちだって。
そう続けた言葉にはまたふざけた調子が戻っていたのに、しいなはそれに安心して強ばっていた体の力を抜きかけたのに、男はお気楽な調子のまま、しいながまた固まってしまうようなことを言った。
「しいなさんがいてくれたら、俺様ずーっとそんなことばっかり言ってられるんだけどな」
だからそばにいて。
とは、音になってはいなかったのだけれど。
それでもその懇願がしいなには届いてしまったので、しいなは答えないわけにはいかなかった。
大きく息を吸って吐いて。何度かそれをくり返して体の力を抜き、鼓動を抑える。答える声がうわずってかすれたりしないように。きちんと目の前の男の耳に届くように。
「一生言ってな」
準備に時間をかけた甲斐あって、返事はちゃんと届いたようだった。
男は顔からこぼれるんじゃないかというほどに大きく目を見開いて、そしてそれはすぐにへにゃりと崩れた。
しまりのない顔だねえと呆れたしいなの前で、男はまた鼻歌を再開した。
相変わらず妙な節回しで「たのしいなー、うれしいなー」とくり返す。
……やっぱりうるさい。
あと三回くり返したら殴ろう。そう決めたしいなは、とりあえず目の前の書類に集中しようとした。