時期が時期だけに人が多いのは当たり前なのだが、折からの暑さが倍増するその光景に葉月の眉間に軽くしわがよる。
しかし。
「うわあ、やっぱり夏休みだけに人が多いねえ」
遊園地の入り口前の広場、チケット売り場や入場口に向かう長い行列という、葉月のしわの原因となった同じ光景を見て弾んだ声があがった。
「でもこのくらいにぎやかなほうが、遊園地に来たって気がするよね」
「そうだな」
楽しくてたまらないという笑顔をむけられて、葉月の眉間のしわは一瞬で消える。そして葉月も微笑を浮かべ、自分より頭二つ分は小さい、先ほどの弾んだ声の主と並んで入場口に向かった。
中に入ると、外で見ていたよりもさらに人が多く感じられた。
確かに、人のいない遊園地など面白いものではないのだろうが、やはり夏休み中の、しかも日曜日の遊園地の人出は半端ではない。カップルも多いが、家族連れの姿もめだつ。
「美奈子、はぐれないように気をつけろよ」
人ごみに再度眉をしかめる葉月とは対照的に、楽しげに人の群れを見ている少女に声をかける。
「大丈夫だよ葉月君。子供じゃないんだから」
かえってきた答えはいたってのんびりとしたもので、葉月は頭を抱えそうになる手を、かろうじて止めた。
だいたい、ふだんから危なっかしくてしかたがないのだ、この小南美奈子という少女は。頭が悪いはずはないのだが、どこか鈍いところがあって目が離せない。子供じゃないからなどと言うが、子供じゃないからこそ巻き込まれる厄介ごとというものがあることをわかっていない。この間も、ナンパとかナンパとかナンパとか、キャッチセールスとかキャッチセールスとかキャッチセールスとか、性質の悪いものに困らされたくせに、ちっとも進歩がない。
こんなに人が多いんじゃ、こいつ絶対に迷子になる…。
葉月の心配をよそに遊園地の賑わいを楽しんでいる美奈子に、葉月は手を差し出した。小柄で華奢な美奈子がこの人ごみにまぎれてしまったら、きっと、そう簡単にはみつけだせない。
「ほら。手、かせよ…」
「?」
鈍い少女のために、葉月は言葉を重ねる。
「だから、はぐれたら困るだろ」
「あ、そうか」
差し出した手に、小さな手が重なった。葉月はその手をしっかり握り締めた。
「これで安心だね」
無邪気に笑いかけてくる美奈子に、葉月は念を押した。
「絶対に離すなよ」
ニコニコしながらうなずいた美奈子に、葉月はほんとに鈍いと心の中だけで呟いた。
絶対にはぐれたくないという葉月の固い決意のもと、つながれた手のかいあって、美奈子が迷子になることなく、めでたく二人はいくつかのアトラクションをまわり終えた。どのアトラクションでもかなり並ばなくてはならなかったのだが、美奈子は少しも疲れた様子がなく、楽しげな笑顔を絶やさない。葉月のほうも、人ごみには正直辟易していたのだが、美奈子の笑顔があるので疲れは感じなかった。
「今日はナイトパレード見ていくか?」
まだ美奈子と別れるのは惜しい気がして、そう訊ねてみたが、返事がすぐ返ってこない。
「美奈子…?」
不思議に思って手をつないだ相手を見下ろしてみれば、美奈子の視線は葉月に向いていなかった。
いやに真剣なその表情に、葉月も美奈子と同じ方向に視線を飛ばしてみる。
「お前、何見て・・・」
すると、きゅっとつないでいる手を握られて、葉月は言葉を途中で止めてもう一度美奈子を見下ろした。美奈子の顔からはさっきまでの笑顔が消え、まゆをよせて葉月を見上げている。
どこか不安げなその様子に、葉月は柄にもなくややうろたえた。どうしたらまた笑ってくれるかと言葉を探す。が、葉月よりも先に美奈子が口を開いた。
「葉月君、あの子迷子かな」
美奈子がうながす方向を見やれば、なるほど、ジュースの自動販売機の前で小さい子供が泣いていた。まだ、小学校にも行っていない年頃だろう。顔をくちゃくちゃにして母親を呼んでいる。
「迷子…にしか見えないな」
美奈子のさっきの表情が子供を心配してのものだとわかり、葉月は安堵した。そして美奈子には気付かれないように息をつく。と、手を強くひっぱられて、こぼした吐息を追いかけるように体が前に倒れた。
「あの子のお母さん、さがしてあげなきゃ!」
葉月をひきずるようにして子供のほうへ駆けていく。一瞬面食らったものの、葉月は体勢を整えると、手をしっかりつなぎなおしてその後に続いた。
なんとか人とぶつからないで自動販売機の前にたどり着くと、葉月と手をつないだまま美奈子はその子供の前にしゃがみこんだ。
「ほら、泣かないで。ね?」
ハンカチをとりだして、涙と鼻水でぐしゃぐしゃな顔をふいてやりながら、美奈子は子供をあやしはじめる。
その様子に葉月は目を細めた。
美奈子らしい、と、そう思う。子供が子供の世話をやいているように見えないこともないが、自分のことより他人のことを優先するのは、この少女のいつもの癖だった。お人よしで、人のことにばかり気を配って、無理をする。そんな美奈子に、葉月はいつも心配させられるのだが、そんな美奈子に救われている自分も自覚していた。
いきなりひきずられたこと、文句言ってやるつもりだったんだけど、な。
ふ、と葉月の口元から笑みがこぼれる。
まだ泣き止まない子供をあやしつづけている美奈子の後ろから抱きしめようと手を伸ばす。
そして。
「けいくん」
美奈子の声に、葉月が固まった。
「ほら、けいくん、おねえちゃんたちがお母さん見つけてあげるから」
固まったままの葉月を見上げて、美奈子が笑う。
「この子、けいくんっていうんだって」
ほんとはけいなんとか君になるみたいなんだけど、泣いてるから聞き取れないんだと、体は子供に向けてあやし続けながら、葉月に向けて話す。
その口調はまったくいつもと変わりがなくて。
泣きやまない子供に困らされながらも、どこか楽しげな、あたたかい口調はほんとうにいつも通りで。
そんな美奈子の声も口調も、葉月がとても気に入っているいつものもので。
だけど。
だから。
葉月の呼吸は苦しくなる。
思い出の中から立ち上ってくる懐かしさとせつなさに軽いめまいすら覚える。
あの教会で、おとぎ話を聞かせたあの子が呼んでくれた、自分の名前。
「けいくん」
やけにきっぱりとした美奈子の声に引き戻されて、見ると、美奈子が子供を抱き上げていた。
「さ、お母さんたちを探そうね」
子供もようやく美奈子になついたらしく、涙は止まり、美奈子の言葉にうなずいている。
「葉月君、迷子センターここから近いし、行って放送でお母さん探してもらおう」
言いながらすでに足は迷子センターのほうにむいて歩き出している。
子供の世話になれているのか、抱っこしながらでも危なげない足取りで、子供も美奈子の腕の中でずいぶん安心しているらしい。
このまま歩かせても別に転んだりはしないだろうけど。
葉月は先に歩き出していた美奈子に追いつくと、その腕から子供をとりあげて、自分の肩にのせた。
そして、突然の肩車に目をみはった美奈子に向かってつぶやく。
「こっちのほうが、早くみつかるかもしれない……」
急に肩の上にのせられた子供も、びっくりはしたようだが、その高さが気に入ったのかはしゃいだ声をあげている。その様子に美奈子も安心したようで、よかったねーと明るく笑う。
「それに、お前、こいつ抱いてたら…」
「うん?」
続いてもらした呟きはちゃんと聞こえたのかどうか、ニコニコして自分と肩の上の「けいくん」を見ている美奈子に向かって、葉月は手をさしだした。
「…手、かせよ」
「あ、はなしちゃってたね」
大変大変と手を握ってくる美奈子に、葉月はやっぱり鈍いとまた心の中だけで呟いた。
迷子センターにたどりついてみると、放送を依頼するまでもなく、母親はみつかった。
葉月たちよりも先に母親のほうがセンターに子供を探しにきていて、歩いている葉月たちをみつけて向こうから駆け寄ってきたのだ。
「肩車の成果かな」と美奈子はあとで笑って言ったが、ともかくも無事に「けいくん」は母親との再会を果たし、「けいくん」が「けいすけくん」であったこともわかり、葉月たちは「けいすけくん」と別れた。
ただ、もうずいぶんと美奈子になついていたけいすけくんは、しばらく美奈子の手を離さず、一緒に帰ろうとだだをこねて母親を困らせた。美奈子のほうはまんざらでもないらしく、頭をなでてやったりして根気よくそのわがままにつきあった。
「けいくん、バイバイ」
ようやくそう美奈子が言えたときには、遊園地のナイトパレードがすでに始まっている時間になっていた。
夏季限定のこの催しは人気が高く、かなり早い時間から場所を確保しておかないと近くでは見れない。まして今日の混雑の状況では。
見ずに帰るというのもなんなので、ふたりは遊園地でもやや高台になる所に移動し、遠くからナイトパレードの明かりを楽しむことにした。
近くで見るときのような豪華さはないものの、夕闇の中に浮かび上がるパレードは十分観賞に値し、美奈子はうっとりとしたため息をもらした。
葉月もまた、ため息をもらしたが、美奈子のそれとはおびる色合いが異なるものだった。第一葉月はナイトパレードを見ていない。さっきからずっと美奈子しか見ていない。
そんな葉月の視線に気付かず、美奈子は移り変わっていくパレードの明かりに、いちいち反応して嬉しそうな声を上げている。
そんな美奈子を見つめながら葉月はもう一度ため息をつく。
あの「けいくん」と別れたときから、葉月はほとんど美奈子と口をきいていない。美奈子が、ナイトパレードを見て帰ろうと言ったときも、ここから見ようと言ったときも、ただうなずいただけで口は開かなかった。葉月としてはかなり意識してそうしているのだが、美奈子は何を察したという様子も無いように見える。
鈍すぎだ、お前。
さらにもう一度ため息をつく。もっとも、葉月自身何を察して欲しいのかと問われれば、はっきりとした答えが返せるわけではないのだが、ここまで何も無いとさすがに寂しい。
続けてもう一度ため息をつこうとして、葉月は美奈子の視線に気付いた。
いつの間にか美奈子はナイトパレードから葉月に視線を移していた。黙って葉月を見つめているその物問いたげな顔に、葉月は期待を込めて視線を返した。しばらく美奈子も黙って葉月を見ていたが、少しうつむくと、ごめんねとつぶやいた。
「葉月君、疲れているのに、パレード見たいなんて言って」
「え……」
予想外の言葉に葉月はまぬけな声をもらした。
「今日、人多かったもんね。今も多いし。なんか私ばっかり楽しんじゃって。えと、もう十分楽しんだから、帰ろう? 葉月君、来週も仕事あるんでしょ。早く寝たほうがいいよね」
葉月の沈黙をどうとったのか、さらに美奈子の謝罪の言葉が続く。
それを止めることもできずにしばらく呆然としていたが、やがて、こみあげてくる笑いをこらえきれなくなって葉月は口元を手で押さえた。
疲れている? 俺が?
…鈍すぎだ、お前。
先ほどと同じことを、今度は笑いの混じった調子で考える。
美奈子の心配は見当はずれのもので、葉月は全然疲れてはいなかった。気付いて欲しい気持ちは全然別のもので、美奈子の考えはそれにかすりもしていない。
しかし、葉月の中にわいてくる気持ちはあたたかいものだった。先ほどまでの不機嫌はもうあとかたもない。
黙っていると、どんどん悪いほうに考えが及ぶのは美奈子の癖。そして、人のことばかり心配するのも美奈子の癖。
救いようの無いくらい鈍いのも。
それが、お前なんだからしかたないよな。
目の前でまだ謝り続けている美奈子の頭に、ぽんと手をおいて、とりあえず美奈子の口を止める。
「葉月君?」
おそるおそるとも表現できるような様子で自分を見上げてくる美奈子を、安心させるように笑ってみせる。とんでもなく的外れではあったが、一応自分の様子がおかしいことに気付いてくれたから、それでいい。
そんなふうに思えた。
「俺、さっき少し悔しかった」
だから、いつになく素直に言葉が気持ちを表す。
「くや、しい?」
美奈子が首をかしげる。鈍い想い人には、これだけで通じるはずが無い。
だから、もう少し具体的に気持ちを言葉にしてみる。
「俺まだ、名前で呼ばれたこと無い」
さすがに「さっき」がいつをさすのか気付いたらしく、美奈子の頬がみるみる赤く染まる。ようやく自分の口にした「けいくん」がどういう意味をもつのかに思い至ったらしい。あーとかうーとか、意味の無いことをもごもごと口の中だけで繰り返している。そんなふうにうろたえている美奈子がかわいくて、葉月はさらに追い詰めてみたくなった。
「俺は、もうずっと美奈子って呼んでる」
そして、後は目で促す。
名前で呼べよ。
さらに赤くなった顔を両手ではさんで、困ったように美奈子が目を伏せる。すかさず葉月は手を伸ばして、美奈子の両手首を捉えた。顔から手をはがさせて、目もあげさせる。そうして、前髪どうしが触れ合うほどの距離で、名前を呼ぶ。
「美奈子…」
名前で。
「美奈子…」
呼んで。
「……珪くん」
観念したように、美奈子が葉月の名前を呼んだのは、もうナイトパレードも終わりに近いころ。散々待たされた葉月は、さらに注文を重ねた。
「それは駄目だ」
「え・・・?」
「俺は美奈子って呼んでる」
それだと「けいすけ」と同じだなどと、真顔で言う。気力を振り絞ってやっと名前で呼べたのに、さらに呼び捨てを要求された美奈子はもうこれ以上ないというくらいに、指の先まで真っ赤になった。体を引こうにも、両手を葉月に拘束されていてはどこにも逃げ場が無い。それでも、あたふた、とか、おろおろ、とか、いろいろ表現できそうなくらいにバタバタする。それがよけいに葉月にはかわいらしく映って、葉月は美奈子を放せなくなっているのだが、そんなことに気付く余裕はもうどこにも残っていない。
「……珪…………………………………………………………………………くん」
挑戦はしたものの玉砕する。
やっぱり無理だよ…とつぶやいた美奈子を葉月は胸の中に引き寄せた。そして、笑いを含んだ呟きを落とす。
「冗談」
全気力を使い果たした美奈子は、葉月の胸に体をすっかりあずけた格好になってしまう。ともすればひざから崩れそうにる美奈子を葉月はしっかり支える。
「それでいい」
美奈子のほうは、葉月に抱きしめられて、真っ赤を通り越して心臓が爆発しそうになっているのだが、なにぶんもう足に力が入らないので、離れるわけにもいかない。葉月の胸に顔を押し当てたまま、震える声で、葉月の言葉を確認した。
「珪くん?」
これでいいのかと葉月を呼ぶ。
「それでいい。そう呼んで」
葉月は、自分の名前を愛おしむように、美奈子の体にまわした腕に力をこめると、その前髪にやさしく唇をを落とした。
「珪くん!?」
葉月の腕の中で、美奈子の肩が跳ね上がった。
「もっと呼んで」
もう一回、今度は別の場所に。
「珪くん…」
「もっと」
「珪くん…」
「もっと」
キス一回で、名前が一回。
二人のやり取りは、ナイトパレードが終了し、閉園のアナウンスが流れるまで、続いた。
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あの教会で、おとぎ話を聞かせたあの子が呼んでくれた、名前。
あのときと同じように俺を呼んで。
今はそれでいい。まだ物語の続きは話せないから。
そして、いつか、約束を果たすことができたら。
物語の続きを教えてあげることができたら。
そのときは…。