会えない時間

 携帯電話を手にする。
 登録してあるものの中で、一番使う機会の多い番号を表示する。
 電話をかけようとする。
 携帯電話を放り出す。
 ある晴れた日曜日。はばたき学園高等部3年生小波美奈子は、ベッドの上に寝転がったままそんな動作をひたすら繰り返していた。

 すでに空は茜色に染まっている時刻だが、美奈子がベッドに転がったのは太陽がまだ真上にも来ていないころ。要するに彼女は一日中食事もせずに、ただベッドの上で携帯電話を触っていたのだ。
 本来なら、こんなにいい天気の、いい天気でなかったとしても、日曜日に一人で部屋でごろごろしているはずではなかったのだが。
「葉月くん、まだ仕事中かなあ…」
 放り出した携帯電話をもう一度拾って画面に表示させた番号を見つめ、美奈子は今日一緒に過ごす予定だった相手の名前をつぶやいた。
 高校に入学して以来、葉月とはよく一緒に出かけている。最初は美奈子のほうから誘っていたが、しだいに葉月のほうから誘ってくれることも多くなり、このごろは必ずどちらかがどちらかを誘うため、休日という休日は葉月と過ごすのが当たり前となっていた。今日だって葉月の誘いで映画を見に行くことになっていたのだ。

 つい昨日までは。

「悪い、仕事が入った」
 心から申し訳ないという顔で葉月に謝られたのは昨日の通学時のこと。いつものように学校に向かう途中で葉月を見つけ、声をかけた美奈子の弾んだ気持ちが一気にしぼんでしまった。 通常葉月のモデルのバイトは火曜日と木曜日なのだが、今週の木曜日の撮影が機材のトラブルでうまくいかず、急遽日曜日に行うことになったというのが葉月の説明だった。日曜日に撮影が終わらないと雑誌に穴があくというギリギリのスケジュールなのだという。
「お前との約束があるから、日をずらしてくれって言ったんだけど…」
 美奈子を見下ろして葉月が言う。
 映画楽しみだね、とそう言おうと思っていたところの突然のキャンセルに、美奈子はこの上なくがっかりしたのだが、葉月のすまなそうに目を伏せている表情を見ては文句は言えない。葉月が悪いわけではないし、モデルをしているときの葉月のことも美奈子は好きだったし、それになにより葉月が頼まれると断れない人だということもよくわかっていたし。
 だから美奈子は明るく笑って見せたのだった。
「いいよいいよ、映画ならまた来週でも見れるし。お仕事がんばってね」
 そうしてデートは来週に延期ということになり、その後いつものように一緒に授業を受けて、一緒に帰って、また月曜日学校でねと、手を振って別れた。デートはキャンセルになったけれど、また来週は一緒に遊びにいける。第一明日には学校で会える。たった一日会えないくらいどうというほどのことではない。

「そう思ったんだけどなあ…」

 携帯電話をベッドのすみに放り出して美奈子はまたつぶやいた。
「まだ、5時か…」
 放り出したばかりの携帯電話を拾い上げて時刻を確認する。 今日は時間がたつのがすごく遅く感じられる。いつもの日曜日は瞬きする間に過ぎてしまうというのに、なんど携帯電話を放り投げても葉月に会える明日にならない。
「もう撮影終わったかなあ…」
 たぶんもう100回目くらいになる独り言。会えなくてもせめて声が聞きたくて、電話をかけようと思うのに、撮影がいつ終わるのかわからなくてずっとかけられないでいるのだ。撮影にかかる時間はまちまちで、時には夜中までかかることもあるということは、以前葉月から聞いていた。撮影中なら留守電になっている。だから電話をかけてしまえば、声だけなら聞けるといえないこともない。が、やはり本人と話がしたい。それに以前仕事中にかけたとき、マネージャーという人が出て、きついことを言われた経験もあって、撮影が終わったかどうかわからない状態では、どうしても電話をかけるのに躊躇してしまう。
 やっぱりかけられないと、また携帯電話を放り出そうとしたとき、着メロが鳴り響いた。驚いた美奈子は思わず携帯でお手玉をしてしまいすぐに電話に出られない。かけてきた相手は、この着メロなら、そんなことを考えながら慌てた挙句に、結局携帯をベッドの下に落としてしまい、泣きそうになりながら美奈子は携帯を拾ってようやく通話ボタンを押した。
「……俺」
「葉月くん!」
 ずっと聞きたくて仕方が無かった声に、美奈子は思わず大きな声を出してしまった。電話の向こうで葉月がかすかに笑ったのが伝わってきて、美奈子はあたふたしながらとりあえず話をふってみる。
「え、と、撮影終わったの?」
「ああ、終わった」
「そっか、お疲れ様」
 ずっと話したくて仕方が無かった相手なのに、いざ話ができるとなると何を話せばいいのかわからず、口から出てきた言葉はありきたりのあいさつ。さっき慌てたときににじんだ涙がこぼれそうになって、美奈子は声がうわずるのを押さえるのに必死だった。

「美奈子」
「ん?」
 耳元で名前を呼ばれて、さらに涙があふれそうになる。
「…今から、出て来れないか?」
「今から?」
「俺、今お前の家の前」
「ええ!?」
 驚いたひょうしに涙はひっこんで、美奈子は携帯を耳にあてたまま部屋の窓を開けた。
「葉月くん」
 同じように携帯を耳に当てた葉月が美奈子の部屋を見上げている。
 窓を開けた美奈子を見つけてその表情が和らいだ。
「出て来れるか?」
「すぐ行く!」
 携帯の通話を切って、美奈子は部屋を飛び出した。
「姉ちゃん?」
 扉を開けた勢いに隣の部屋の尽が驚いて顔を出したが、かまわず階段を下りる。一日ベッドに転がっていたので、服はしわだらけだが、さすがに着替える暇は無い。それでも玄関にかかった姿見で、髪を整え、しわをのばしてから玄関を出た。
「早いな」
 少し呼吸が荒くなっている美奈子を見て葉月が微笑む。
「まあね」
 美奈子は軽い調子で答えた。葉月の笑顔に今日一日の憂鬱がとけて、また泣きそうになってしまったからだ。
「撮影、早く終わったんだね」
「ああ、早く終わらせた」
 葉月は一歩美奈子に近づくと、その頬に手を伸ばした。
「悪い、寂しい思い、させたか?」
 泣きそうになったのを悟られたのかと、美奈子は体を固くした。葉月の重荷にはなりたくないからさっきも必死で我慢したのに、ここでばれては意味が無い。約束がだめになったからといって、葉月に気に病んでほしくなかったから、昨日も精一杯明るくしてたのに。
 だから、今度も美奈子はにっこりと笑ってみせた。
「大丈夫だよ。昨日も学校で一緒だったし、明日も学校で会えるんだし、寂しくなんかないって」
 だから気にしないで、と続けようとした美奈子の言葉はしかし、葉月の言葉にさえぎられた。

「俺は寂しかった」

 目を丸くする美奈子の前で、葉月はさらに言葉を続けた。
「俺は、毎日お前に会いたい」
 葉月がさらに一歩美奈子に近づく。
「俺は毎日お前の声が聞きたい」
 両手を伸ばして、美奈子の頬を包み込む。
「俺は毎日お前に触れたい」
 そのまま葉月はかがんで、美奈子の額にこつんと自分の額をあてて、目を閉じた。
「俺は、今日ずっと寂しかった」
 吐息とともにこぼされたそのささやきを間近にうけて、美奈子はゆっくりと微笑んだ。 もう、涙はでてこない。憂鬱もさびしさも全部葉月がとかしてくれて、残るのはただあたたかな幸福感。それを葉月にも返してあげたくて、美奈子も葉月の頬に手を伸ばした。
「私も、本当は今日ずっと寂しかった」
 葉月が目を開ける。その碧の目に映る自分の姿を確認して、美奈子はもう一度微笑んだ。
「でも、もう寂しくないよ」
 昨日とは違う、強がりの混ざらない、本当の美奈子の笑顔に、葉月ももう一度微笑んだ。
「俺も、もう寂しくない」
「私たち一緒だね」
「だな」
 額を合わせて、互いの頬を互いの両手で包み込んだまま、もう一度二人は笑顔を交わした。


「そういうことは、弟の目の届かないところでやってくれ………」
 2階の窓からつぶやかれた言葉は、もちろん、二人には届かなかった 。

終わり

ゲームの部屋に戻る