甘いぬくもり

 そんなに沈んでいるように見えたのだろうか。

 確かに少し煮詰まってはいた。
 曲の解釈に迷いがあった。それは当然演奏にも現れる。
 共演者との見解の相違もあり、今日の出来は散々なものだった。
 だが、まだ本番まで日がある。
 それまでに立て直せばいいのだと、そのために必要なことを考えているつもりだった。

 楽譜を読むために視線を落としていたので、何をされているのかすぐにはわからなかった。
 ふわりと髪に降りたあたたかな感触。それが優しく滑り降りて、そしてまた髪に降りる。
 頭をなでられているのだ。
 そうと気づいても、俺はしばらく動けなかった。
 浮き立つようなそれでいて穏やかな安らぎが満ちていく。
 ふと息がもれた。胸で凝っていたものがそれで全て出ていったように思えた。
 やはり、ずいぶんと滅入っていたらしい。自分でもそうとわからないくらいに。
 まるで子供のようだと笑いがもれた。

 肩の力が抜けたおかげで、俺はようやく顔をあげることができた。
「香穂子?」
 俺は椅子に座っていたので、立っている香穂子の顔を見上げる格好になる。いつもと逆だ。
 視線が合うと、香穂子は慌てて俺の頭に載せていた手を引いた。
「ごめん」
 バツの悪そうな顔をして、香穂子は両手を自分の背中に隠した。
「邪魔しようと思ったわけじゃないんだけど」
 香穂子は視線を床に落として、口の中でぼそぼそとつぶやいた。
 申し訳なさそうに小さくなっている姿が、ひどく愛おしいと思った。

「謝らなくてもいい」
 その手が後ろに隠れているのが寂しくて、俺は自分の手を伸ばした。
 さっきまで俺の髪に触れていた華奢な手を引き寄せて、そっと包みこむ。
「……嫌じゃなかった?」
 ようやく顔を上げてくれた香穂子に、俺は笑ってみせた。
「君は、心配してくれたんだろう?」
 遠慮がちに香穂子も笑った。
 すまない、心配をかけて。俺はいつも君に助けられてばかりだ。
 だから。
「ありがとう」
 香穂子の手を取ったまま、俺は彼女を見上げて心からの感謝を述べた。
 こんな言葉ではとても足りないけれど、でも言わないよりはいい。

 少しずつ香穂子の顔がほころんでいった。そうして彼女の笑みから遠慮がとれていく。
 香穂子本来の笑顔が戻ったところで、俺は彼女をさらに強く引き寄せた。

終わり

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